自然は「豊かさ」であって「不足」ではない
起業家で開発コンサルタントであるセスト・ジョバンニ・カスタニョーリさんは「自然は豊さであって、不足ではない」、「新技術が問題なのではなく、我々自身が問題である。調和は、自然の中にある」と話した。この言葉も、僕には重たく響いた。
さっきのIKUZOの話ではないけれど、かつての僕らは「自然」=「田舎」=「未開発」=「発展途上」=「ダサい」と見ていたフシがある。でも、ホントにそうなんだろうか?僕らが浅はかな(と敢えて言うよ)知恵で作ってきた「文明」や「都市」、「利便性」は、本当の意味で僕らを豊かにしたんだろうか?
マンモスを狩ったり、木の実を拾ったりして生きていた僕らのパイセンたちが今の僕たちを見て、本当に「豊かになったな」と思うだろうか?僕にはよくわからない。
が、僕は今の時代に生きている。マンモスを狩る生活にも、ドングリを拾って食べる生活にも、今からはちょっと戻れないし、戻りたくはない。
じゃあ、どうすんの?という問いに対しては、僕は「選択肢を残しておこうよ」と思う。
都市は都市で、素晴らしい。これほどのものを人間が作り上げたんだから、これを全てぶち壊しにする必要はない。ただ、世界のすべてを都市化、電子化、均一化する必要もまた、ないんじゃないの?と思う。
寒い地域もあれば、暑い地域もあって良い。なにも、どこにいても人間が快適でいられるように、エアーをコンディショニングする必要なんかないと思う。津波が押し寄せる岸辺には、堤防を立てて人が住むのではなく、家を建てなければいい。僕はそんな風に思っている。
自然との調和の中に、僕らが生きている。そう考えれば、自然をコントロールしたり、対立しようとする(無駄な、と敢えて言おう)努力はしなくなるはずだ。
自然と調和するために、人間も「自然に生きる」こと
「自然と調和する」ことは、ひいては「自分(人間)も、自然な状態で生きる」ことにつながるんじゃないか、と思う。
僕が思う人間の自然な状態とは「こうするべき」、「こうでなくてはならない」、「社会的にはこうするもんでしょ」、「自分はこう感じるけれど、世の中的には違うからこうする」みたいなことを、できるだけ取り払った状態。紛争の仲介をするファシリテーターとして活動するダビド・レアル・ガルシアさんも、同じようなことを話していた(はずだ)。
人間自身が自然な状態にいなければ、自然との調和も生まれない。僕の敬愛する内田樹氏は「人間には肉体という制限があって、そこを超えた欲求はもはや自然ではない」てなことを言ってた(確か)。
要するに、僕らには身体は一つしかない。アタマは一つだし、手と足は2本だ。だから、腕時計がいくら好きでも、1~2本持ってれば、ホントは用が足りる。靴だって、1~2足あれば、十分なはずなのだ。ついでに言えば、僕らには胃が1個しかない。この胃袋に入る分の飯を食えれば、もうそれ以上何か必要ですか?ということになる。
自分にとって適切な量が分かれば、それ以上は必要ないし、ひょっとしたら社会や、自分の身の回りの人たちに還元できるかもしれない。そうすれば、自分だけでなく、周りも一緒に豊かになれるんじゃないか?てなことを考えている。